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蝉を食す

朝、玄関を開けると

蝉が落ちていた。死んでいるようだったので、つついてみた。

「ジジジ...」

元気のない響き。

ちょうど蝉か、何かの昆虫を食べたいとぼんやりと思っていた。

うすらぼんやりと頭の片隅にその気があった。

これもなにかの縁。もうじき死んでしまうのだろうが、その前にいただくとしよう。

そう思い仕事に出た。

帰宅後、ふと思い出す

仕事から帰宅後、ふと今朝のセミを思い出し、玄関を出る。

「もう、どこかに行ってしまったかな..」

そう思いながら、玄関を開けた。

いる。

通路の端っこの方に、朝とまるきり同じ表情で佇んでいる。

「死んじゃったかな?」

そう思って、一旦家の中に入る。

今日は弟が来ていたので、声をかけた。 「蝉、食べる?」

「野生はよくないんじゃない?死んでたら雑菌が繁殖したりするだろうし」

「野生は関係ないよ」

とりあえず、生死を確認にすることにした。死んでいたら食すのはやめておく。

近くにあったハサミを持って、玄関を出る。おそるおそるつついてみた。

「ジジジ...ジジジ!」

今朝より大分威勢のいい響きで、勢いよく飛び上がった。

通路の蛍光灯にビシバシと体があたっている。何回か繰り返した後、天井にビタっと張り付いて、動かなくなった。

つついては、また止まり、そんなのを2回繰り返した後、これでは埒が明かないと思い、虫取り網を用意することにした。

虫取り網

手近な材料で、ちょっとした小物を作るのは楽しい。

適当に家の中を見渡すと、針金ハンガーが目についた。今日はこれにしよう。

スーパーの袋詰めする場所にある、薄っぺらいビニル袋も目についた。これも使う。

その復路をマスキングテープでちょっと引き伸ばしたハンガーに適当にくくりつける。

最後に家にある中で一番細い傘にテープで取り付け、完成である。非常に簡素なものである。

いざ。

玄関を開けた。

蝉を発見した。

通路の端っこにいた。

「作らなくても良かったな」

内心そう思いつつも、せっかくなので、お手製の虫取り網で捕獲した。

調理

とりあえず、ネットで調べる。 羽をむしってうごけないようにし、数分焼くといいらしい。

フライパンを火にかけ、熱くなったところで、生きたまま投入した。

なんとなく、心苦しい気がしたが、これが苦しめずに済み、早いのだと言い聞かせた。

十数秒後には、段々と鳴くこともなくなった。

それからは段々と黒光りしこんがりと焼け始めた。

実食

パッとみ、出来上がったようである。大体黒く光り、香ばしい匂いがする。

内心ビクつきながら、丁寧に包丁を入れる。断面を見ると、それはもう肉だ。

量が少ないので、味わえるように、爪楊枝でちょびちょびと食べることにした。

胸の部分は、素材の味を楽しむために味付けはとくにしていないが、さっぱりとした鶏肉やエビのような味がする。

腹部は、旨味があって、若干のジューシーさがあるように思えた。

外殻はエビの皮にほとんど似ている。正直、この部分はあまり美味しくない。

だが揚げ物にしたらまるごと食べられそうな気がした。

SNSで見られる「生き物だったもの」の群生

SNSでは、至るところで調理済みの生命体の写真が晒されている。

虫の写真はとりわけ「閲覧注意」されがちな気がするが、実際そこまで注意する必要があるのか、とふと思った。

料理はたいてい加工されていて、元の生き物の形や内蔵を処理する過程などが表れることはない。

もし調理済みの生命体を晒すのと同じノリで、調理工程の生命体を晒してみたら、そこそこ人間に敬遠されそうである。

だが、本質的には調理済みであろうが、調理前であろうが、調理中であろうが何も変わりはしない。

本人の思うところ・動機を考えたほうがいい。

空虚な畏敬

切り刻まれた哺乳類の調理済みの肉片をさぞ自慢げに見せびらかすような精神性の人々がいるとしよう。

彼らは「切り刻んだ生き物の写真は見たくない」そう思っている人たちに配慮しているか。

動植物関わらず、遺体を晒しているという気持ちは、きっとない。

それ自体、別になんだっていい。自分だって晒すし、どんな写真にでさえ何かしらの微小な生命体の残骸が写り込んでいるとも言える。

ただ、ふと思うことは、特別でも奇異でもなかった、

ただ横たわっている「生きていたもの」の残骸に対して、たまには畏敬の念を抱いてみてもよいのかもしれない。

そういう、どうでもいいことだけである。

別に思ったからと言って何一つ変わることはない。本当に些細なものである。