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関係性を定義したくなる習性

何かと人間の関係性をハッキリ言ってしまいたくなることがある。

親や兄弟という関係性は、出自がハッキリしているため、明瞭ですっきりとしている。

しかしながら、ほかの私的な関係性の中で、ハッキリと言えるような関係性の相手を探すのはよっぽど難しい気がしてしまう。

関係性という詭弁

もともと「関係性」があるかどうか自体、自分にとっては違和感のある考え方である。

関係はあるっちゃあるのであるが、当然「見いだす」ことで見えてくるという側面もある。

この人とはゲームができるから、ゲーム友達、この人は、僕が告白してOKもらえたから恋人....などなど。

ある特定の条件に満たしているため、そうと呼んでいるわけである。

ある種、便宜的に分類しているだけであるとも言える。

それはそれでもちろん便利なので問題ないとおもうのであるが、個人的に「ゲーム友達」という言葉に閉じ込めてしまっているように感じてしまう面もある。

ゲームはするが、ほかはしないのように。

カテゴライズによるメリット

わかりやすい関係性というのは、他人に指し示したり、自分の中で分類・線引きしたりするのには非常に便利な物である。

例えば夫婦の関係でありつつ、諜報活動のパートナーでもあります(スミスさん)というように、複数の関係性を孕んでいる中で、ほかの人に伝達しても問題ない形で、表現される。

自分にとって、こういう関係性だから、それ以上にはならないように。という線引きとしても使える。

とはいえ、結局様々な可能性を孕んでいる

そう言ったことまで考え始めると、いよいよ難しくなってくる。

友達と言っても

友達という言葉にも、たくさんの解釈がある。 - 遊び仲間 - 親友 - 内密な話ができる - 飲みに行ける - 電話ができる - 変なスタンプを送れる - 仕事の話ができる - 互いに探求できる - 金儲けの話ができる - 何かしらの依存要素がある - 何かしらの発展要素がある - 腐れ縁

などなど、人によって解釈や考え方は様々である。

例えば、こう言った友達と判定できる要素を一つ一つあげていって、それらの条件次第で友達率を出すこともできそうである。

それがわかったところで、どうしたというのか。各々、暗黙のうちには知っているのかもしれない。

しかしながら、現実社会においては、特にハッキリと言わない方が何かとうまくいきそうな気がするのであった。

最近は、関係性を考えるよりは、「生命体の相互作用」「社会的触媒」というような感じで、「現象」に近しく感じているのであった。

それを知りつつも後付けでわざわざ言語化するというのは、わかりやすく、面白く言って、遊んでみたいからなのでしょうかね。