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験担ぎの効果や人間関係について

弱ったときほどゲン担ぎのようなものが効いてくるような気がした。

20代前半まではこんなん意味不明な文化だよな、効果あるわけないじゃんとは思っていたものの、気づかないうちにその恩恵を享受していたりして、ありがたい文化なのかもしれない。

日本はやたら年を忘れたがったり、納めたがったりするけど国民性なのかなと思った。

まぶたの痙攣

あいかわらず、右まぶたの痙攣が続くので、なるべく目も使わないようにして生きていきたい。

他人の評価と生き方

誰にどういった言い方をされようが最終的にだから何?になるのに加え、マイナスっぽいことを言われた時点で、もう関わらなくてもいいやとなってしまう気持ちもある。

その人がその発言をする精神性を疑ってしまうのかもしれない。

以前であれば、どうにかして、解釈をポジティブに変えようという気にもなったが、ポジティブでもネガティブでもどちらでもなく、次回以降積極的に関わる必要はないな、と感じてしまうようになった。

理性的な諭しくんと感情的な思い

悩みというものを話されても、上から目線の回答をしてしまったり、だ共感してほしいだけだったりするわけで、そういった会話の中でも好き嫌いが発生する。

結局、何も言わないほうが良かったこともたくさんある。

大抵のことは理性的に解決できると思っていた時期が自分にもあったが、理性的な解決を好む自分のエゴだったような気もする。

昔までは、理性的に諭すのが普通だと思っていたが、自分も理性的なものを欲していない時が発生してしまい、もう昔のようには考えられないなと思ってしまった。

それに伴って、逆に理性的に諭そうとだけ試みる人に対して、「ちょっと違うんだけどな」と思うようになってしまった。

辛いときに黙って缶コーヒーを渡してくれた人を好む、みたいな話である。

世の中トレードオフなんだろう。

何も思ってないのに、思わなくてはならないみたいな風潮に乗ってみた結果

普段特に思うっぽいこともないので、割と返答に困ることが多い。

というよりも、前提からかんげていくとめちゃくちゃ長くなるし、なんなら今こうして会っていない可能性もある。という考えまで生まれてきてしまう。

AとBの選択肢だったらどっち?という質問に対して、答えられなくなる。

どちらかといえば、で答えを求めているのはわかる。

でも、どうも二択から選ぶのが嫌で、別の選択肢も模索してしまう。

自分も選択肢2つから選んでもらう手法使うけど。

棲み分けと考え方

人と関わる必要は特にないが、「社会的には」必要になることがある。

社会には様々なタイプの人が存在するので会社などある一定のルールに沿って運用されている空間では、「踏み込みすぎない」ことも相互的に円滑にすごすための配慮として、大切なものである。

なので、会社等でそういったことが守れない人が糾弾されるのは必然である。

友人というような曖昧な空間における関係においては、このラインが難しい。

特に学校のような公的機関で不可抗力的に発生した友人関係に言えると思う。

学校では、問題行動をなるべく起こさないように努め、さらに馬が合わないとわかっている級友となるべく円滑な人間関係を営んでいくことは基本的には大切なことである。

なぜなら、さまざまな技能を身につける空間と言えるので、基本的には不快にならないように行動するのがベストだからと思っているから。

というわけで、クラス全員となるべく円滑に過ごすのはアタリマエのことである。

ここで問題となってくるのは、特に仲がいい存在である。

仲がいい人というのは、特に意識せずに、自然発生的に生じる(意図的に仲良くなる人もいるが)。

特別な配慮も必要なく、言いたいことが言いやすいし、ストレスも少ないなど、一緒にいることが多くなる。色々要素はあるが、とにかくあまり違和感がなく居心地がいい関係性であることは確かである。

ということで、仲がいいのと友達であるのはまた別の話なんだなと思えてくる。

ということで友達であっても、自分の感性やポリシーを保護する上でも適度な距離感って大事なんだと思った。